Black Friday Moncler Coat

    万和宮は三百年以上の歴史ある、台中市最古の文化財です。国定第3級の古跡にも認定されています。
    万和宮は媽祖を奉っており、尊称は「老大媽」と言います。西暦1684年に、湄洲から台湾に護送され、南屯開墾のために安置されました。
    当初「老大媽」は南屯の小祠に祭られており、各地の信者から崇められていました。媽祖の存在は人々の心に深く根付き、南屯地域に廟を建てようという声が次第に大きくなりました。
    そこで、張、廖、江、劉、黄、何、頼、楊、戴、陳、林等の南屯地域の十二名から資金を集め、雍正の4年(西暦1726年)9月20日、新しい廟が完成しました。
    このお廟は、人々の心を一つにし、平和な暮らしと地域の発展を願うという気持ちを込めて「万和宮」と名づけられました。
    万和宮は漳泉地域の伝統的な建築物であり、中国の漳、泉、汀、嘉、潮、恵六府の人々が台中盆地へ出向き開墾した足跡もみられます。
    当初、万和宮は管理者不在だったため、廟の土地が侵出してしまいました。そこで、民国50年(1961年)当時の南屯区長・林劉連炳、市会議員・林錫三、地元の有力者・廖朝樹及び里長・陳舜仁などの有志が協力し「財團法人台中市萬和宮」を創立しました。
    民国74年(1985年)万和宮は国定第3級の文化財として評定されました。民国88年(1999年)政府は約四千万元をかけ修復工事を開始し、90年(2001年)に完成。91年10月29日盛大な祭りが開催されました。
    地域の文化発展のため、第10届目の董監事(理事、監事)は文化ビルの建設を提案し、地元の支援により民国80年(1991年)2月5日、董事長(理事長)林劉連炳は文化ビルの起工式典を執り行い、民国82年(1993年)6月に竣工しました。
    万和文化ビルの地下は食堂、一階は事務室、二階は会議室、三階は図書室、四階は文物室、五階は麻芛文化室。六階には「眺望樓」が増築され、西は大肚山、東は台中市内と南屯の古い街並みを展望でき、非常に美しい景色が見られます。
    万和文化ビルの五階にある「麻芛文化室」(ヅナニ黃麻)は文建会の指導のもと、民国93年(2004年)10月24日に設立され、台中市内で初めての地域文化施設です。室内には南屯地域と黄麻の歴史、展示品、麻芛文化IN南屯、ギャラリーなどが設置され、毎月旧暦一日と十五日、土日と祝日が開放日となり、ボランティアの案内員が室内の説明をしてくれます。
    万和宮は郷土文化の保存と伝承のために尽力しており、民国86年(1997年)8月16日には、財団法人万和文教基金会を設立、万和宮の董事長・林劉連炳が初代基金会董事長に任命されました。
    現在の董事長である蕭清杰は、民国90年(2001年)に万和宮と万和宮文教基金会董事長に就任して以来、歴代董事長・林友仁、林劉連炳の遺志を継ぎ、また歴代の董事と監事の支持により地域文化に関する本を出版しました。本の中で紹介されている「万和宮志」は地域文化の伝承ということで注目を浴びています。
    万和宮は慈善活動を推進しています。民国66年(1977年)から毎年2回、信者の中で学業・品行共に優秀な子女に対し、奨学金を支給しています。当時75人が選ばれ、合計3万1千数元が支給されました。近年は信者の激増により、学生数は約8千人にのぼり、約1千6百数万元の奨学金を支給しています。
    また、歴史ある万和宮は200年守り続けてきた祭「字姓劇」を伝承してきました。「字姓劇」は媽祖様に捧げる神楽の一種です。
    伝説によると、清の道光4年(1824年)万和宮の「老二媽」は旱溪から南屯までの巡行神輿で、南屯の下町田心仔から万和宮に戻ろうとしたとき、神輿が重くなり、何人が担いでも動かなくなってしまいました。そこで人々は「老二媽」の神意を伺ったところ、巡行に変えて、今後は「字姓劇」を行うよう指示をしたということです。
    こうして、人々は毎年旧暦3月21日から数日間、各名字を提供した「字姓劇」と梨園劇を演じることと供え物をすることを約束して、神輿は無事に萬和宮に入ることができたそうです。
    南屯地域の人々は媽祖様との約束を守り、翌年道光5年(1825年)の旧暦の3月21日から「字姓劇」を行っていました。
    初日は漳洲劇、22日広東劇(潮州、嘉応州、恵州等)、24日泉洲劇、25日汀洲劇、そのほか各名字の字姓劇と謝神劇、兵仔劇等を演じ続けていました。約1ヶ月~2ヶ月間演じ巣こととなります。
    こうした行事は現在まで続いている重要な行事です。信者の増加により、名字も早期の12字姓から、28字姓に増えました。
    万和宮は嘉慶8年(1803年)11月「老二媽」の神像を1体作りましたが、その完成の儀式のとき、西屯大魚池で廖氏少女が一人亡くなりました。彼女の魂は万和宮の方へ飛んできたそうです。少女は万和宮へ行く途中に一人の行商人と遭遇しました。
    少女は「悲しまないでください。家の門の前の金木犀の下にお金を隠しているのでそのお金を使ってください」ということを両親に伝えてほしいと行商人に頼みました。
    廖氏少女の母はそのことを行商人から聞き、すぐに万和宮を訪ねたところ「老二媽」の神像が涙を流したそうです。その時、廖氏少女の母は自分の娘は神様になったのだと悟りました。これは犂頭店媽祖の伝説の一つです。
    西屯大魚池は媽祖と縁があり、嘉慶以後西屯の「廖」という名字の人々は万和宮の「老二媽」のことを「老姑婆」(おばあさん)と呼んでいます。そして三年に一度「老二媽」を迎えに行き、里帰りの行事を行っています。